意識と無意識の調和-ポロック展

親知らずを抜いて間もない頃、東京国立近代美術館で開催されている「ジャクソン・ポロック展」に出かけた。痛みを抱えていたら、展示に集中できないだろうけれど、会期中で他に行けそうな日がなかったので、意を決したのだ。

かの有名な「インディアンレッドの地の壁画」は、やはり格別だった。全体が視野に入るように離れて観ると、絡み合うような線が有機的に立ち上がり、凄まじいエネルギーを発しているのを感じる。絵が放つ力と、その絵の中に引き込まれるような力とを感じながら、作品の前に立っていた。吸い込まれるほどの奥行き、その果てしない広がりに言葉を失う。

ポロックの言葉で気になるもの。それは、意識と無意識について。

絵の中にいる時、私は自分が何をしているのか気づいていない。一種の「馴染む」時期を経て初めて、自分がしてきたことを理解する。

私は変更したり、イメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら、絵画はそれ自身の生命を持っているからだ。私はそれを全うさせてやろうとする。結果がめちゃくちゃになるのは、絵とのコンタクトを失った時だけである。そうでなければ、純粋な調和、楽々としたやり取りがあり、絵はうまくゆく。

Jackson Pollock "My Painting"1947
大島徹也「ジャクソン・ポロック-存在と生成-」


作家の個人展に行くのは久しぶりだった。その人の足跡をたどるように、年代を追って作品を観ると、人生とは、なるべくして起こることの積み重ねであると同時に、次に何が起こるかわからないものなのだと改めて思う。

こうして展示会を訪れて思うのは、作品に添えられた解説文はどうにかならないのか、ということ。読んでよかったと思うときと、読まなければよかったと思うときとがあり、そのことで作品を観る気分や集中度が大きく影響されるからだ。あまりに実のない解説が続くと、何もない方がどれだけよいかと思ってしまう。

と、愚痴てしまったけれど、ポロックの作品は素晴らしい。

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作品におけるリアリティ

ピナ・バウシュに捧げられた映画「pina」を観てきた。

映画を見終えた後、久しぶりに拍手を送りたい気持ちに駆られた。興奮して、めったに買わないパンフレットを買ったくらい。

実のところ、ピナのことをほとんど知らない。でも、彼女が他のダンサーと違うと言われているのは知っていた。

10代の頃、私は新聞の愛読者(!)で、なかでも演劇や音楽、舞踏のステージ評を読むのが好きだった。舞踏の記事の中にピナは度々登場し、誰もが彼女は特別な存在だと言っていたので、その名前だけは記憶に残った。特別な存在。それが何を意味するのかは分からないけれど、いつか彼女の舞台を見てみたいとぼんやり思っていた。

しかし、ピナは2009年に亡くなる。その記事も確か新聞で読んで、もうピナには会えないのだと知らされた。


映画の中に登場するピナの映像はごくわずかだ。でも、その眼差しには、一目で惹きつけられる。

画中では、ピナが芸術監督を務めたヴッパタール舞踏団のダンサー達が、それぞれにピナについて語る。彼らの言葉を通して、ピナという人物が立ち上がってくる。そして、ピナの求めた「探索する」というあり方が舞踏団のスピリットになっていることを思い知る。一人のダンサーの言葉にもあったが、彼らの中にピナが宿っているのか、彼らがピナの一部になっているのか。

ピナの作品では、ある状況が描かれ、提示される。愛、悲しみ、孤独、怒り、笑い。言葉になる間もなく、あふれて、こぼれていく感情たち。そして、言葉にならない想い。それらが起きるままを描くだけで、答えを出さない。だから観る者は、自らに問いかけざるを得ない。

身体表現にリアリティを与えているのが、舞台美術だ。映画は、舞台上に土が撒かれるシーンから始まる。踊るダンサーの衣装や体が土で汚れていき、それが汗でさらににじむ。激しく踊るダンサー達の呼吸音が響く。観るものを惹きつけてやまないその展開。自然に起きることをそのままに見せる。それが鑑賞する作品として精度の高い、美しさを兼ね備えているということが何よりの驚きだ。そして、時に織り込まれるユーモアの数々。もっと彼女の仕事を知りたい。心からそう思った。

映画監督のヴィム・ヴェンダーの仕事も素晴らしい。撮影のロケーションといい、ダンサー達へのインタビューといい、「分かっている!」と叫びたくなる。すべてにおいて、pinaへの愛が詰まっているのが感じられる。

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痛みが教えてくれるもの

1週間前に下の親知らずを抜いた。腫れや痛みはだいぶ落ち着いたものの、いまだに鈍い痛みが低音のように響く。

耐えられないほどではない。何かに集中すれば、痛みから意識が離れるだろうし、「ちょっとした痛みで弱音を吐いてはいけない」ともう一人の自分も言う。「抜歯してからそれなりに時間も経ったし、もうだれも同情してくれないよ」そう自分に言い聞かせて、いつも通りに過ごそうとする。

でも、私はとてもイライラしている。ちょっとした出来事に大きく反応している。そんな自分に気づき、自分が痛みにこんなにも弱いのかと悲しい気持ちになる。痛みそのものより、反応する自分に対して、イライラし、悲しくなる。

痛みを抱えるとき、自分は内に閉じているように感じる。イライラや悲しみが外に出ないようにしているのかもしれない。きゅっと出入口を閉めているかのようだ。外からの刺激はその出入口を揺らす。「ダメダメ、そこが緩むと大変なんだから」と、私はますます硬直していくようだ。

自分の感情が忙しい間、肉体にある痛みを放置していることに気づく。ああ、私は自分の体の声に対して「分かっている」つもりで、それ以上聞こうとしなかった。自分の痛みにまつわるストーリーを重層的に立ち上げ、がんじがらめになっているけれど、それって肉体に起きている出来事から離れているということ。

その構図にはっとする。怒りや悲しみ、強い感情を自分の中に押し込めてしまう自分のパターンをまた、繰り返しているのではないかと。

急に自分の体が不憫になる。本当はあなたをケアしなければいけないのに。いったん、頭は休めよう。今日は早く寝て、体を休ませてあげよう。

そして、痛みにまつわるもう一つのテーマが薬との付き合い方である。これはまた機会があるときに先送り。

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ただ見る、そして感じる

「モダン・アート」展を巡るなかで、今までとは作品の見方が違っていることに気づく。

ただ見る、そして感じる。それがとても自然に、スムーズに起きていた。

これまでは、考える、理解するというプロセスも自然に起きていたけれど、今は、それらを脇に置いている自分がいた。少しリラックスして、作品に向き合えるようになったのかもしれない。そんな風にして作品を丁寧に見ていくと、さらに見えてくるもの、感じるものがあって、「これが自分の主観なのだ!」と気づいていくプロセスも面白かった。

たとえば、景色を描くとしたら、ロマン主義、印象派の絵画より、写真作品の方が好きであることに気づいたり。形象主義やキュビズムに、意外と不自由さを感じたり。主観とは実に勝手なものなのだ。

私にとって印象的な作品とは、探索する喜び、発見する喜びを与えてくれるもの。自分のなかに波紋を広げてくれるもの。

アルフォンソ・オッソリオ「母と子」
アクション・ペインティングの手法で描かれているようだが、とても繊細な作品だと思う。曼荼羅のように緻密でスペイシー。じっと見つめているといろいろなものが見えてくる。本当に飽きない。
彼はジャクソン・ポロックの友人だったらしい。そのポロックの展示会も来年2月に開催される。

クリフォード・スティル「1950B」
厚く塗り重ねられた絵の具、色の配置やバランスの妙で、絵のなかにある丸い部分を通して、自分のなかを見せられているような気分になる。キャンバスに描かれた作品なのに、自分の内面にまで立体的に広がってくる恐るべき作品。ぱっと見ただけでは気づかない、魔法のような作品。
そういえば今月、サザビーズのオークションで、彼の作品が48億円で落札されたらしい。


ヘレン・フランケンサーラー「キャニオン」
下塗りをしていないキャンバスに、薄く溶いた絵の具を染み込ませるステイニングという手法で描かれた作品。
重ねられていない色が透明感を保ったまま、広がっていく様が美しい。色の響きが感じられる。

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オキーフに会いに

国立新美術館で開催されている「モダン・アート,アメリカン-珠玉のフィリップス・コレクション」に出かけた。その名のとおり、アメリカの近代美術の歴史を眺めるような時間となった。

思い出せば中学校時代、美術の時間が好きだった。なかでも色を組み合わせてグラデーションをつくるプロセスが好きだった。

形があって、ないようなもの。あいまいなものを表現していくことが好きだった。だから、同じような表現を見ると刺激され、惹きつけられる。ジョージア・オキーフの作品が好きな理由もそんなところにあるのかもしれない。

オキーフの作品は「自然と抽象」というテーマのもとに展示されていた。今回、展示されている彼女の作品で一番好きなのは「白地に暗赤色の大きな葉」。ポスターに使われている「葉のかたち」より好き。

彼女の作品を見ていると、自分が作品のなかに降り立っていることに気づく。心が体をするりと抜け出して、そこに降り立っている感じ。

描かれてる色、形、テクスチャをなぞっていく。その触感に心がざわめく。表面は美しく、なだらかであるけれど、そこに内包されている何ものかが強く訴えてくる。覗き込んでも見えないけれど、それは奥底に確実に存在している。なのに、私たちはそれが存在していないかのように振舞っている。

彼女の作品は、しばしば「官能的」と表現される。何かを暴露すること、露にすることは生々しさを伴うが、それ自体は直接のテーマではなく、見る者のなかに起こる快感や抵抗、拒絶といったものこそがテーマなのかもしれない。オキーフは、私たちが通り過ぎてしまわないよう、やさしく誘っているかのようだ。

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気づけば慈悲について学んでいた

今年の正月に引いたお御籤のキーワードが「慈悲」だった。
慈悲、すべてをありのままに受け入れる心。

日頃、何かと物事を評価してしまう自分に気づきつつも、なかなかそこから脱せなかった。そんな自分にとって、まさに今、必要なテーマだと素直に受け取ったことを覚えている。

そして、正月から半年以上たった7月から、集中コース「クリパル・ステージ」のアシスタントを務めることになった。1年ほど前に自分も受講して、教師トレーニングに進むことを決意するきっかけを与えてくれたコースだ。

10月からは集中コース「フェニックス・ライジング・ヨガセラピー」のアシスタントも平行して務めるとともに、生徒として集中コース「瞑想」にも参加。つまり、10月終わりから11月半ばは、ステージとヨガセラピーと瞑想の日々。

これだけの濃密な集中した時間をもてたことは、とてもありがたいことだった。なぜなら、ヨガセラピーと瞑想の学びが加わることで、ステージでの学びがぐっと深まり、つまるところは「慈悲」について学んでいたのだと気づけたから。

ステージでのアシスタントとして、生徒のプラクティスをサポートしたり、体験を聞かせてもらう経験を重ねるなかで学んだのは、「見守る」というあり方だった。

与えたことに応えてくれているのか、という尺度でとらえるのではなく、生徒のなかに気づきが生まれた瞬間をともに祝福するというあり方。それは、期待と不安のなかで何かがやってくるのを待つのではなく、誕生と変化の連続である今という時間を大切にするあり方だった。そのあり方を支えるものこそ、「慈悲」の心なのではないか。そんなことを思っている。

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生アーモンドバターはえらい!

久しぶりに料理のマジックを味わって、
興奮冷めやらぬ!ところなんです。

かぼちゃのスープに、先日購入した生アーモンドバターを使ってみたら、
とってもクリーミーな味わいになった!
ミルクやバターを使ったかのようなリッチさなの。

こうすればもっとよかった!というところはあるものの、
それを上回る美味しさだったー!

今日は!マーク連発だ(笑)!


<材料>
・かぼちゃ
・キャベツ
・出汁(干しいたけ、昆布)
・生アーモンドバター
・味噌
・メープルシロップ
・塩

<作り方>
1)鍋に出汁、かぼちゃ、キャベツ、塩ひとつまみを入れ、火にかける。

2)鍋が煮立ってきたら、火を弱めて、かぼちゃに火を通す。

3)味噌、生アーモンドバターを適量溶かし、メープルシロップで味を調える。


*出汁をとった後の干しいたけと昆布を刻んで入れたけれど、
これはNGだった。キャベツも食感がスープとそぐわないのでなしにする。
しいたけと昆布は佃煮にしよう。

*シンプルにかぼちゃだけで作った方がこのスープのよさが引き立つ。
かぼちゃの皮をむいた方がスープの色見はいいかもしれないが、
そこはまた次回、検証してみる。
今回、見た目がよろしゅうなくて撮影を断念したくらいなので。

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常温保存の方々

今日は代々木上原のガイアにて買い物。
冷蔵庫がないので、買う食材も常温保存できるものが多くなってきた。

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生アーモンドバター(右上)
チャパティをつくろうと思っているので、そのお供に。

シチリア産・塩漬けケッパー(右下)
とっても大粒。日本でいう梅干みたいなもんだろうな。
調味料としていろいろ使えそう。

全粒クスクス(左)
全粒タイプは初めてみた!興奮して思わず購入。

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空海と密教美術展

先日、母と妹の3人で、「空海と密教美術展」(@東京国立博物館)に出かけた。

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形のない心に、形を与えていくこと。内なる世界のエネルギーを、人々の目の前に再現すること。

確信と強い意思がなければたどり着けない。

展示品のなかでも特に強いエネルギーを放っていたのが、仏像曼荼羅だ。

インド、中国、そして日本へと渡ってきた教えが、変わらずに力強さを保っていることに密教の底知れないパワーを感じる。

怒りや不安、欲望を超えていくための力を与えてくれるもの。過去の人間達もそれを求めて、この世を過ぎていったのだろう。

「帝釈天騎象像」(写真左下)の厳しさと穏やかさが同居した顔立ちが印象に残った。

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さあ、新しい場所へ

昨年末からはじめたヨガ教室は、ダンススクールをお借りして開催してきた。そのスクールが今月末で閉鎖されることに。

残念だけれど、すべては変わり続けるのだから、この流れに乗って、新しい場所を探しに行こう。

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ここでクラスを行ってきた10ヶ月間を振り返る。ゆっくりではあるけれど、成長した自分をほめてあげよう。

はじめてのヨガ教室を持つにあたって、あれこれ思案するのは楽しかった。名前を決めたり、備品をそろえたり、お店にフライヤーを置かせていただいたり。そして何より、通い続けてくれる生徒さんがいることが本当にありがたい。

この場所で収穫できたことをたっぷりと噛みしめて、新しい場所でさらに成長していこう。

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